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砂糖文化を伝えた長崎街道「シュガーロード」を辿ってみよう!

「シュガーロード」は砂糖文化が広がって行った長崎街道の別名です。2020年6月、その文化的価値が評価され、「砂糖文化を広めた長崎街道 ~シュガーロード~」として「日本遺産」に認定されました。シュガーロードにはいったいどんな砂糖文化が息づいているのでしょう。さっそく探索してみましょう。

長崎街道は長崎市と北九州市小倉北区をつなぐ長さ約220キロに渡る路線です。江戸時代に整備され、現在に至るまで九州の主要幹線の一つとして広く利用されてきました。その街道の昔の面影は長崎市の日見峠や大村市の松原地区に残っています。
この街道にそって広がって行ったのが砂糖文化でした。砂糖はまず、室町時代に、海外交易の拠点であった長崎にポルトガルから入ってくるようになりました。そして江戸時代になって長崎街道ができると、持ち込まれた砂糖は、シュガーロードを伝って九州各地に広がっていったのです。その結果、街道周辺の地域では砂糖を使った菓子や料理が作られるようになりました。そうした食べ物は今でもその地域の名産として受け継がれています。

日本遺産に認定された長崎街道シュガーロードでは、長崎県の他に佐賀県と福岡県の関係地区の砂糖文化も認定されていますが、ここでは特に長崎県の長崎市、諫早市、大村市についてその砂糖文化を探索していきたいと思います。

  • ©長崎県
    砂糖文化が広がった長崎街道シュガーロード

  • ©ウィキペディア
    長崎街道日見峠付近

  • ©長崎県観光連盟
    長崎街道松原宿跡

かつてシュガーロードのスタート地点は長崎市にあった「出島」でした。現在では「出島和蘭商館跡」と呼ばれるこの施設は、埋め立てによって作られた人工の島。江戸時代にポルトガルやオランダなど外国との交易が許された日本で唯一の場所でした。
砂糖は交易として出島に持ち込まれたものの一つで、最初はポルトガル人によって紹介されました。砂糖には重さと安定性があるため、船で運ぶときに船の一番下に積み込まれ、船を安定した状態に維持する役割も果たしました。
出島の現在の施設は復元されたもので、敷地内には倉庫がいくつか建てられています。砂糖は、専用倉庫として、「三番蔵」に持ち込まれ、ここで保管されました。そして必要に応じて、シュガーロードを通って九州各地に運ばれて行きました。

  • ©長崎県
    江戸時代に唯一外国との交易が行われた出島和蘭商館跡

  • ©長崎県観光連盟
    復元された出島

  • ©長崎県
    砂糖は専用倉庫である三番蔵に保管されました。

出島に持ち込まれた砂糖はまず長崎市に広まり、それと同時にポルトガル人はカステラも長崎に持ってきました。しかもただカステラを紹介するだけでなくその作り方を日本人に教えたので、カステラを売る店ができました。カステラという名前はカステラの原型である「ピスコチョ」というお菓子が最初に作られた「カスティーリャ王国」から来ていると考えられています。

有平糖(あるへいとう)はポルトガルから長崎市に伝えられたもう一つの砂糖菓子です。「アルヘイトウ」とはポルトガル語で「砂糖菓子」を意味します。砂糖と水を混ぜて煮詰め、冷えた時に棒、花、くだものなどさまざまな形に作り込むシンプルなお菓子です。作り方はシンプルですが、結婚式などに使われる紅白の千代結びの有平糖のように、装飾用の菓子に作られることもあります。

  • ©長崎県
    カステラはポルトガルから伝えられました。

  • ©長崎県
    砂糖と水だけで作る有平糖

長崎市を後にシュガーロードを北東に進むと諫早市に着きます。諫早市でかつて長崎街道の要となっていたのが「諫早神社」で、この神社の付近からは諫早街道も伸びています。昔の人たちは、このシュガーロードを歩きながら長崎から砂糖などさまざまな品物を運び、途中、諫早神社に立ち寄って参拝したのではないでしょうか。そんな光景が目に浮かんできますね。
さて肝心の砂糖文化ですが、諫早では「諫早おこし」とそのおこしを作るための道具が日本遺産の構成文化財として認定されています。元々の諫早おこしは、この地域で生産された豊かな米と長崎から運ばれて来た砂糖を使って作られた砂糖菓子です。
また、日本遺産には含まれていませんが、諫早は江戸時代から伝わる「うなぎの蒲焼」でも有名なところです。この蒲焼料理では、たれの原料の一つに砂糖が使われています。諫早の蒲焼は器に特徴があります。京都の楽焼きの器は底が2重になっているのですが、その一番下の部分に水を入れて熱を加えると、蒸気が出て来ます。焼いたうなぎがこの蒸気で蒸され、ふっくらと仕上がります。

  • ©長崎県観光連盟
    かつて長崎街道の諫早地域で交通の要となっていた諫早神社

  • ©長崎県
    諫早おこしは、諫早の米と長崎から運ばれた砂糖を使って作られました。

  • ©長崎県観光連盟
    楽焼の器の上に乗せて蒸気で仕上げる諫早うなぎ蒲焼

さて、シュガーロードの長崎県内最後の場所は大村市です。大村市には長崎街道に沿って松原宿が築かれました。この宿場町の跡には、今でも街道沿いに昔の「松屋旅館」の建物が残っていて当時の様子を偲ぶことができます。
大村市では「兵児葉寿司(へこはずし)おこし」と「大村寿司」が日本遺産の構成文化財に認定されています。
兵児葉寿司おこしは、米を蒸してから乾燥させ、それを煎った後に黒砂糖と水飴をまぜて作ったおこしです。この作り方は1679年に中国人から伝えられたもので、今でも当時と同じ製法が用いられています。

大村寿司は、新鮮な魚の切り身や野菜などの具をご飯の上に乗せ、もろぶたと呼ばれる木箱に詰め、最後に錦糸卵を散らして上から押して作った押し寿司のことです。戦国時代、領主大村純伊は一度戦いに敗れて領地を失うのですが、その後再び交戦し領地を取り戻します。その時に、お祝いとして出されたのがこの大村寿司の始まりとされています。
ところで、お寿司なのになぜ砂糖と関係があるの?と思うかもしれませんね。実は、大村寿司では、寿司飯や具に普通の寿司よりも多めの砂糖を使っているのです。砂糖は当時、この地域で肉体労働をする人にとって大切な栄養源だったようです。

長崎市から北九州市小倉北区までをつなぐシュガーロード長崎街道。この街道に面した地区の内、長崎県内の3つの市の砂糖文化について詳しい内容をお伝えしました。長崎市の出島に運ばれて来た砂糖が、シュガーロードを通って諫早市や大村市に広がって行き、それぞれ独自の形で砂糖文化が継承されてきました。ぜひ長崎街道を辿りながら、各地域の砂糖文化に触れてみてください。

  • ©長崎県観光連盟
    旧松原宿の松屋旅館

  • ©長崎県
    米、黒砂糖、水飴を混ぜて作る兵児葉寿司おこし

  • ©長崎県
    魚や野菜をご飯の上に乗せて錦糸卵を散らした大村寿司

写真提供:長崎県、長崎県観光連盟ほか
文:Setsuko Truong
メルボルン在住のフリーランスライター。旅とアートが趣味で日本国内・海外あちこち旅してきました。長崎は好きな町の一つ!そんな長崎の魅力をお伝えしたいと思います。

掲載日: 2020/12/04
※掲載している情報は記事公開時点のものです。変更される場合がありますので、お出かけの際には事前に各施設へお問い合わせください。

インフォメーション

スポット名
砂糖文化を広めた長崎街道 ~シュガーロード~
TEL
-
住所
【長崎街道ここにはじまるの石碑】〒850-0015 長崎県長崎市桜馬場1丁目2
【諫早神社】〒854-0061 長崎県諫早市宇都町1-12
【大村市松原宿跡】〒856-0009 長崎県大村市松原本町

【長崎街道ここにはじまるの石碑】〒850-0015 長崎県長崎市桜馬場1丁目2

【諫早神社】〒854-0061 長崎県諫早市宇都町1-12

【大村市松原宿跡】〒856-0009 長崎県大村市松原本町

※お出かけの際には事前に位置をお調べすることをお勧めいたします。
駐車場情報
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対象年齢
全年齢
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公式サイト
http://sugar-road.net/
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