今から430年以上も前に長崎港から遠いヨーロッパに旅立った13〜14歳の4人の少年たち。豊臣秀吉が天下を治めていた安土桃山時代の天正10年に旅だったため、「天正遣欧少年使節」と呼ばれています。歌やドラマにも何度か取り上げられたことがあるので、知っている人も多いと思います。でもなぜそんな遠い昔に、こうした少年たちが遠いヨーロッパに旅立ったのでしょうか。そして帰国後どうなったのでしょうか。天正遣欧少年使節の足跡を辿ってみましょう!
豊臣秀吉が天下を治めていた安土桃山時代の前半には、ポルトガルやスペインから多くのキリスト教宣教師が日本にやってきました。その中の一人にヴァリニャーノという宣教師がいました。ヴァリニャーノは日本人にキリスト教をより良く理解してもらい、同時に日本の文化を紹介するために、使節をヨーロッパに派遣する計画を立てました。そこで選ばれたのが、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの4人の少年でした。
この4人はその年齢がまだ13、14歳という若さでしたが、1582年、ヴァリニャーノと共に長崎港を出発し、3年という年月を掛けて1585年にローマに到着しました。4人はヨーロッパ各地を回り、その度に地元の人から熱狂的な歓迎を受けたと言われています。ローマでは、教皇グレゴリウス13世に謁見し、さまざまなことを学び、1590年に再び日本に戻ってきました。
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天正遣欧少年使節を計画した宣教師ヴァリニャーノ
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使節として派遣された4人の少年たちについて報道するヨーロッパの新聞記事。中央はメスキタ神父。
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ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見する伊東マンショ
少年たちは出発してから8年たって戻ってきたわけですが、その頃の日本では秀吉がバテレン追放令を出すなど、キリスト教への対応も厳しいものになっていました。そうこうしているうちに徳川家康が天下を取り、江戸時代になると、キリスト教は完全に禁止されキリシタンへの弾圧が激しくなっていきました。
4人の少年の内、千々石ミゲルは、キリスト教の信仰をやめてしまいましたが、他の3人はコレジオと呼ばれる聖職者教育機関で勉強を続け、1608年に司祭になりました。
大村市では、この4人の使節が長崎港を出港した1582年から400年目にあたる1982年に、4人の偉業を讃えるために、海岸の近くにある森園公園の一角に「天正遣欧少年使節顕彰之像」を建てました。
また、JR大村駅近くにあるミライon図書館の近くには、「天正夢時計」が立てられていて、毎日9:00〜18:00の間、正時になると少年使節のからくり人形が登場します。
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4人の少年使節の偉業を讃えて大村市森園公園の一角に建てられた「天正遣欧少年使節顕彰之像」
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「天正夢時計」。正時になると4人の少年のからくり人形が現れます。
「中浦ジュリアン記念公園」は、4人の少年使節の一人、中浦ジュリアンの功績を讃えて、2002年ジュリアンの出身地である西海市に作られました。小高い丘の上にあるこの記念公園は駐車場から坂を上った所にあります。公園の入り口からは石段が作られ、その石段の横に建っているタイル塀に中浦ジュリアンの肖像画が描かれているのですぐわかります。
園内には、ジュリアンの像の他、資料展示室が作られています。また、資料室を下った所には、「中浦ジュリアン顕彰之碑」がたっています。これは中浦ジュリアンの功績や善行などをたたえて世間に広く知らせる目的で作られたものです。
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「中浦ジュリアン記念公園」の入口から続く石段の横のタイル塀にはジュリアンの肖像が描かれています。
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中浦ジュリアンの資料が展示されている展示室
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中浦ジュリアン顕彰之碑
中浦ジュリアン記念公園に建てられたジュリアンの像は、はるか遠くにあるローマに向かって指をさしています。4人の少年使節たちは、全員が使節としてキリスト教を学びまた文化交流の役割も果たしたのですが、その中で、中浦ジュリアンの名前がもっともよく知られているのはなぜなのでしょうか。
帰国の翌年である1591年、ジュリアンは天草の修練院でイエズス会に入会します。そして1601年にはマカオに赴き、神学を学び、1604年に日本に戻ります。その4年後に司祭になるのですが、この頃から徳川幕府の禁教政策に激しさが増すようになります。4人の少年使節の中にはキリスト教の信仰をやめてしまったり、国外に逃げた人もいましたが、ジュリアンは最後まで日本に留まり信仰を捨てませんでした。ところが1632年、ついに捕らえられ、翌年1633年、64歳の時に穴吊りの刑に処されてしまうのです。
中浦ジュリアンがよく知られているのは、このように信念を貫いた生き方が多くの人に感銘を与えるからでしょう。
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中浦ジュリアン記念公園にたてられたジュリアンの像はローマに向かって指をさしています。
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中浦ジュリアンは、徳川幕府の弾圧にもかかわらず、日本に留まり最後までキリスト教の信仰を捨てませんでした。
中浦ジュリアン記念公園内にある資料室には、ジュリアンの生涯を描いた壁画が展示されています。これは長崎純心大学の本田利光教授によるものです。壁画では、ジュリアンの生い立ちから始まり、ヨーロッパでローマ教皇に会っている場面や、音楽や美術を学んでいる場面、そして処刑され殉教するまでの波乱に満ちた人生の各場面が描かれています。
展示室には、また、ジュリアンが1621年にローマのマスカレーニャス神父宛に書いた手紙も展示されており、これを見るとヨーロッパから戻った後も手紙による交流を続けていたことがわかります。
年齢にして13、14歳、今で言えば中学1・2年生くらいの少年たちが、まだ船でしか外国に行けなかった時代に、はるか遠いヨーロッパに使節として旅立ち、ヨーロッパに日本の存在を知らしめたことは驚きに値することですね!そして帰国後は、日本にヨーロッパの文化を伝えましたが、その時に日本の情勢が変わっていたことで、思うように活躍できなかったことが残念です。特に中浦ジュリアンに至っては、悲しい最後となってしまいました。それにもかかわらず、4人の少年たちが示してくれた情熱と勇気は多くの人の胸を打ち、私たちに熱く語りかけてきます。その情熱と勇気をこれからも受け継いでいきたいものですね。
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中浦ジュリアン記念公園内にある資料室
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資料室の中にはジュリアンの生涯を描いた壁画が展示されています。
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ジュリアンがローマのマスカレーニャス神父宛に書いたラテン語による手紙
掲載日:
2020/08/17
※掲載している情報は記事公開時点のものです。変更される場合がありますので、お出かけの際には事前に各施設へお問い合わせください。
【天正遣欧少年使節顕彰之像】〒856-0815 長崎県大村市森園町
【天正夢時計】〒856-0831 長崎県大村市東本町95
【中浦ジュリアン記念公園】〒851-3500 西海市西海町中浦南郷2048