長崎原爆資料館の前に、俳句が書かれた碑「句碑」が建っています。いずれも、原爆について詠んだものです。そこには「降伏のみことのり、妻をやく火 いまぞ熾(さか)りつ」と刻まれています。
「降伏のみことのり」とは、昭和天皇が太平洋戦争の敗戦を告げた玉音放送のこと。ラジオでこの放送が流れる中、妻を火葬する火が大きく燃え上がる様子を詠んでいます。
これは1945年8月9日、長崎に投下された原子爆弾(原爆)で、妻と3人の子どもを亡くした俳人・松尾あつゆき(本名:敦之)の句です。あつゆきさんの妻・千代子さんは、原爆投下から5日後の8月14日に亡くなりました。原爆であまりに多くの人が亡くなったので、あつゆきさんは千代子さんを火葬するために、自分で木を集めて、焼かなければなりませんでした。伊良林国民学校(今の伊良林小学校)のグラウンドで、まさに火葬をしていた、8月15日正午、日本の敗戦を告げる玉音放送が流れます。
©平田周氏
松尾あつゆき(1904〜1983)
原爆資料館前にあるあつゆきの原爆句碑
原爆が投下された8月、あつゆきさんは41歳。優しいお母さんの千代子さん、しっかり者のお姉さんだったみち子さんは女子高生、中学校に入ったばかりの海人さん、やんちゃな盛りの宏人くんはまだ3歳、そして由紀子ちゃんはわずか生後7カ月、6人の家族でした。
©平田周氏
あつゆきの妻・千代子と長男・海人
©平田周氏
あつゆきの4人の子ども。長男・海人、次男・宏人、次女・由紀子が原爆で亡くなり、長女・みち子は大けがをした。
妻と3人の子どもを亡くした強い悲しみを、あつゆきさんは後に、このように俳句に詠みました。
すべなし地に置けば子にむらがる蠅
あわれ7ケ月のいのちの、はなびらのような骨かな
なにもかもなくした手に四まいの爆死証明
二十五年、あの朝子と手をふって別れたまま
原爆で子どもを失ったお父さんはどんな気持ちだったでしょうか。わが子の遺体に群がった蠅、7カ月の娘の小さな骨、25年が経っても「あの朝」を忘れられない気持ち・・・少し、想像してみましょう。
©平田周氏
あつゆきが遺した日記。原爆被害の状況から戦後の生活が克明に綴られている
©平田周氏
8月15日の日記「今になって降伏とは何事か。妻は、子は、一体何のために死んだのか」と書かれている。
長崎市の平和公園や爆心地公園周辺には、ほかにもいくつもの碑が立っています。松尾あつゆきさんと同じように原爆のことをよんだ俳句や詩を刻んだ「句碑」「詩碑」のほか、原爆で亡くなった路面電車の運転手や外国人の戦争犠牲者らを偲んだり、「もう二度と戦争はしません」と誓ったもの、外国から平和を願って贈られたモニュメントもあります。
これらの碑がどのようにして建てられたか、どのような思いが込められているかを、その作った人たちの気持ちを考えたり、想像しながらめぐってみてください。
松尾あつゆきの句碑の隣に並ぶ、俳人・隈治人の原爆句碑
「電鐵原爆殉難者」の追悼碑。電車の運転手として働いていた10~20代の若者も原爆の犠牲になった。
平和公園にある、世界各国から贈られた平和のためのモニュメント
写真提供:平田周氏
文:冒険する長崎プロジェクト事務局
掲載日:
2021/08/05
※掲載している情報は記事公開時点のものです。変更される場合がありますので、お出かけの際には事前に各施設へお問い合わせください。
長崎市平野町