昔から軍事的にいろいろな面で関わって来た長崎県佐世保市には、無線塔や防空壕、そして要塞跡などの戦争の遺構がいくつか残っています。「遺構」ですから、平和になった今では不要となったものばかりですが、昔は敵が攻めてくる可能性があり、戦争の危機があったというわけです。今回はそんな佐世保市のあまり知られていない側面を紹介します。長崎県について戦争の話をすると「原爆」という言葉が真っ先に上がってきますが、原爆だけではない別の戦争の跡を見学して、今ある平和を大切にしていきましょう。
針尾無線塔(はりおむせんとう)は、西海橋の近くに立っている巨大な3つの塔です。第2次世界大戦の時には、真珠湾攻撃開始を知らせる「ニイタカヤマノボレ1208」という暗号文を中継した塔だと言われています。大正時代に建設された3つの塔の平均の高さは136メートル、直径約12メートル。長崎県では最も高い建物です。正式な名前は「旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設」。国の重要文化財に指定されています。
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針尾無線塔は高さ136メートルの巨大な塔。第2次世界大戦の時に使われました。
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長崎県で一番高いこれらの塔は、遠方からも見ることができます。
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桜の季節にはこんな風景も見られます。
無窮洞(むきゅうどう)は、佐世保市城間町にある防空壕の跡です。「無窮」とは、無限という意味。第2次世界大戦のさなか1943年~1945年にかけ、当時の宮村国民学校の教師と小学生たちが掘って作りました。
幅約5メートル、奥行き約20メートルという、防空壕としては巨大なもの。防空壕の中には教室、トイレ、炊事場、食糧倉庫などが作られています。ここには生徒500~600人が避難することができました。そのため、空襲が始まるという情報が伝えられると、教師や生徒たちはこの防空壕に逃げ、ここで授業を受けたり生活をしたりしました。
戦争当時、この防空壕で先生や生徒たちがどのような生活をしていたのか、ぜひ見学してみてください。
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第2次世界大戦の時に国民学校の教師と生徒が作った防空壕「無窮洞」の入口。
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防空壕の中は広々とし、教室やトイレ、炊事場が整備されていました。
丸出山観測所跡(まるでやまかんそくじょあと)は明治時代1889年に軍港である佐世保港を守るために佐世保湾の北側に作られた砲台の敷地内にある観測所の遺構です。
観測所は、みかげ石とレンガで作られた基礎の上に鋼板の屋根を取付けたものです。この観測所から敵が接近して来ないかどうかを観測し、敵が接近していることがわかると、射撃をするような体制になっていました。最終的には、一弾も発射することなく終戦となりましたが、これも不幸中の幸いですね。
戦争がなくなった今、砲台は撤去され、現在は当時使われていた観測所の遺構が残っています。観測所跡の周辺は1955年に丸出展望所として整備され、社会見学や観光のスポットになっています。そして2016年には日本遺産の構成文化財のひとつに指定されました。
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佐世保市の北側に作られた丸出山観測所の跡。
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鋼板の屋根のついた観測所から敵の接近がないか観察しました。
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観測所から見た九十九島の風景。
弓張岳砲台跡(ゆみはりだけほうだいあと)は佐世保市街地の西側にある標高364メートルの「弓張岳」に作られた砲台の跡です。
この砲台は、1941年にロシアの脅威に対抗するために作られました。佐世保市街地を初め九十九島など広範囲に渡って見渡すことができたので、敵が近づいて来た時に真っ先に発見することができ都合がよかったのです。
実際、終戦の年1945年には佐世保市が空襲を受けました。その時には、この砲台から300発ほどの射撃で応戦した記録が残っています。戦争が終わると、砲台は撤去されましたが、その基礎となる砲座が残っています。
現在この砲台跡周辺は、その展望の良さから西海国立公園の一部に指定され、佐世保市の主要観光スポットになっています。また、ここからの夜景は「日本夜景100選」にも選ばれています。こうした景色も、平和であるからこそ楽しめますね。
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よく整備された弓張岳砲台跡。
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砲台跡からは佐世保市街地を初め九十九島が展望できるので、戦争の時は敵の接近をいち早く発見できました。
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砲台跡からの夜景は「日本夜景100選」に選ばれています。
石原岳森林公園(いしはらだけしんりんこうえん)は正確には佐世保市ではなく西海市にあります。ただ、この公園内にある石原岳堡塁(いしはらほうるい)は、佐世保軍港を守るために作られたものなので、ここで紹介します。
堡塁とは敵の襲撃を防ぐために石やコンクリートで作った砦のことです。1899年に完成しました。堡塁には全部で7つの弾薬庫がずらりと並んでいます。名目は弾薬庫ですが、実際にはいろいろな物資を収納していたと言われています。これらの弾薬庫は今でも大変良い状態で整備されているので、当時の様子を偲ぶことができます。
明治政府によって軍港として開発された佐世保市やその周辺には、戦争の情報を受発信する無線塔や、敵が攻めて来た時に街を守るために要塞が築かれ、現在でもそれらの跡がいくつか残っています。また、第2次世界大戦の時には襲撃から身を守るために国民学校の教師や生徒が掘って作った防空壕も残っていてます。今では平和な時代になりましたが、こうした戦争遺構を訪ねて、戦争の危機があった時代やその時代に生きた人たちの心境や生活の様子を理解しましょう。
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佐世保湾や港を守るために作られた石原岳堡塁の跡は石原岳森林公園として整備されています。
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公園内には当時使われていた弾薬庫などが良く整備された形で残っています。
掲載日:
2020/02/04
※掲載している情報は記事公開時点のものです。変更される場合がありますので、お出かけの際には事前に各施設へお問い合わせください。
【針尾無線塔】〒859-3452 長崎県佐世保市針尾中町382
【無窮洞】〒859-3237 長崎県佐世保市城間町3-2
【丸出山観測所跡】〒857-1235 長崎県佐世保市俵ヶ浦町
【弓張岳砲台跡】〒857-0065 長崎県佐世保市小野町
【石原岳森林公園】〒851-3509 長崎県西海市西海町横瀬郷