夏は長崎にとって特別な季節です。
1945年8月9日午前11時2分、長崎にアメリカの原子爆弾が投下され、多くの市民などが犠牲になったあの日から2020年で75年が経ちました。
2016年10月に長崎原爆遺跡として国の史跡に指定された「爆心地」「旧城山国民学校校舎」「浦上天主堂旧鐘楼」「旧長﨑医科大学門柱」「山王神社二の鳥居」を巡ります。
千羽鶴に平和の願いを込めて…。
爆心地公園の被爆当時の地層には屋根瓦などが残っています。
原爆で倒壊した旧浦上天主堂の鐘楼
長崎原爆資料館 所蔵
【浦上天主堂旧鐘楼】
旧浦上天主堂は被爆前、「東洋一の聖堂」と呼ばれるロマネスク様式でレンガ造りの美しい教会でした。
爆心地から北東約500メートルの場所にあった天主堂は原爆の爆風により倒壊しました。
南側の鐘楼は天主堂内に落下、北側の鐘楼は小川に滑落しました。
旧浦上天主堂は1958年に解体、翌年再建されましたが、被爆遺跡として残されているのは北側の鐘楼で、爆風で吹き飛ばされた場所に保存されています。
鐘楼は鉄筋コンクリート製で直径5.5メートル、重さは約50トンあるとされています。
北側の鐘楼は川沿いから見る事もできますが、もっと近くで見てみたいという方は教会の敷地内から柵越しに見学できます。
川沿いから見た鐘楼
教会側からの入口
近くで見てみると鐘楼の模様もよく分かります。
【旧長崎医科大学門柱】
爆心地から南東約700メートルの場所にあった長崎医科大学はほとんどの校舎が木造建築であったため、爆風や火事で約850名の教職員や学生が亡くなりました。
原爆遺構に指定された門柱は、旧長崎医科大学の正門として使われていたものです。
高さ1.8メートルの門柱が左右に設置されており、大きく傾いたのは左側に設置されていた門柱で、台の部分から水平方向に9センチずれて傾いています。
同じく右側の門柱は山影になっていて爆風の影響をほとんど受けずに現在まで残っています。
門柱の周りには千羽鶴や「平和を」のメッセージカード入りの瓶が多数置かれており、訪れる人が多いのかなと感じました。
斜めに傾いた門柱
現在は医学部の図書館裏から見ることができます。
台座から離れていることが分かります。
【山王神社二の鳥居】
爆心地から南東約800メートルの場所にあった山王神社には被爆前に4本の鳥居がありましたが、「一の鳥居」と「二の鳥居」以外は全て倒壊しました。
「一の鳥居」は1962年に交通事故により倒壊しましたが、「一本柱鳥居」とも呼ばれる「二の鳥居」は左半分が爆風で倒壊、右半分だけが今も残っています。
近くで見てみると、神社に寄付をした人たちの名前が刻まれた文字が熱で溶けて消えています。原爆の熱線が高温だったことが分かります。
爆風で倒壊した左半分の鳥居は現在、山王神社へ向かう参道の近くに横たわっています。
また、山王神社の境内入口には「被爆クスノキ」と呼ばれる大クスノキが現在も残っています。
樹齢約500~600年の大クスノキは原爆により黒焦げとなりましたが、奇跡的に新芽が出たため、治療を繰り返しながら日々成長を続けています。
2014年に長崎出身のアーティスト福山雅治さんが作詞・作曲した「クスノキ」という曲で全国的にも知られるようになりました。
半分だけ
倒壊した二の鳥居(左側)も残されています。
山王神社の境内入口には被爆クスノキ。
【爆心地】
「グラウンド・ゼロ」と呼ばれるこの場所。現在は爆心地公園として整備されています。
米軍のB29ボックスカー号がファットマンと呼ばれるプルトニウム型の原子爆弾を投下。長崎市松山町上空約500メートルで原爆がさく裂、南北約5キロメートル、東西約2キロメートルの範囲が一瞬で焼失し、死者約7万3900人など甚大な被害を与えました。
公園内には被爆当時の地層を見ることが出来るスペースがあり、壊れた屋根の瓦礫やお茶碗などが埋没しています。
爆心地を示す標識は原爆投下後に何度か立て替えられ、現在の三角柱の形になりました。
2020年には、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇が来崎し、原爆犠牲者に向けて献花したことでも世界的に注目されました。
現在の爆心地
原爆投下後に長崎入りした理化学研究所の関係者が建てた爆心地を示す標識
長崎原爆資料館 所蔵
被爆当時の地層ではお茶碗などが埋まっています。
【旧城山国民学校校舎】
城山小学校の敷地内に保存されている旧城山国民学校校舎。
被爆地から西方500メートルの場所にあり、爆心地から一番近い国民学校でした。
学校には教職員や生徒、疎開していた三菱重工長崎兵器工場の関係者がおり、ほとんどが爆風や火事により亡くなりました。
当時は鉄筋コンクリート3階建ての校舎が二棟並んでいました。
原爆により北側校舎の2階と3階は全焼、南側校舎は外観が残っていましたが、大雨で崩落しました。
その後、何度か解体・修復工事が行われ、北側校舎の階段棟の部分だけが残されています。
現在は平和祈念館として被爆資料を展示・保存しています。
2階ではコンクリート面に後から木材などを取り付けるための下地材である木煉瓦(もくれんが)を見ることができ、爆風の温度が高かったため焼け焦げて黒くなっている部分もそのまま残っています。
館内にはボランティアの人が製作した原爆体験の絵や模型、世界中の人々から贈られた千羽鶴などが展示されており、被爆当時の城山の様子がよく分かります。
原爆や台風被害にも耐えた被爆校舎
現在は平和祈念館になっています。
熱風で黒く炭化した木煉瓦(もくれんが)
今回5か所の被爆遺跡をゆっくり歩いてみて、約3時間かかりました。
被爆から75年が経ち、浦上天主堂のように取り壊された過去がある場所や台風の被害を受けた場所もありました。
被爆遺跡には一つ一つのストーリーがあります。
「いつか」ではなく「いま」こそ、ぜひ家族で歩いて学んでみてはいかがでしょうか?
文・写真 non0328 長崎が好きな元長崎市民。色んな場所に出かけたいです!
掲載日:
2020/07/21
※掲載している情報は記事公開時点のものです。変更される場合がありますので、お出かけの際には事前に各施設へお問い合わせください。
【浦上天主堂旧鐘楼】〒852-8112 長崎県長崎市本尾町1-79
【旧長﨑医科大学門柱】〒852-8102 長崎県長崎市坂本1丁目10-12
【爆心地】〒852-8118 長崎県長崎市松山町6
【山王神社二の鳥居】〒852-8102 長崎県長崎市坂本2-6-56
【旧城山国民学校校舎】〒852-8021 長崎県長崎市城山町23-1