シーボルトは江戸時代の終わりごろに来日し、長崎で医学や生物学を伝えたドイツの医師であり博物学者です。長崎県人だけではなく日本人なら一度は聞いたことのある名前だと思います。シーボルトはなぜ日本に来たのでしょうか。そしてどんなことをしたのでしょうか。シーボルトの残した足跡を辿ってみましょう。
シーボルトはフルネームをフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトといいます。ドイツで生まれましたが、東洋学研究に関心のあったシーボルトは、オランダのハーグへ移ります。そしてオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となり、1823年に来日し、長崎のオランダ商館に医者として勤務します。そして日本に来て間もなく、楠本滝と出会い結婚。1827年には娘・楠本イネが生まれました。楠本イネは成長して医学を学び日本初の女医になりました。
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シーボルトと結婚した楠本滝 (1807–1865)
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やってくる船を出島で観察するシーボルト。そのすぐ近くに子どもを背負った妻楠本滝の姿が見られる。
シーボルトの本業は出島のオランダ商館の医者でしたが、来日した翌年の1824年には、出島の外に「鳴滝塾」を開設し、日本各地から集まって来た医者や学者50人以上に西洋医学、つまり蘭学を教えました。その中には後に医者や学者として成功した高野長英や二宮敬作などの著名人がいました。
シーボルトはまた日本の植物にも関心を示し、出島に植物園を作りました。そこに1400種類以上の植物を植え研究したと言われています。
このように日本の医学や生物学に貢献したシーボルトでしたが、1828年にシーボルト事件が起きます。これはオランダに帰国する際に、先に出発していた仲間の船が難破し、放り出された荷物の中に、当時持ち出しを禁止されていた日本地図が入っていたことが発覚した事件です。このことによって、シーボルトは国外追放の処分を受けましたが30年後の1859年にふたたび来日することができました。この時は日本に3年間滞在し幕府の招待で江戸に出向き蘭学を教えました。
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長崎市鳴滝に作られた鳴滝塾。シーボルトはここで日本人に蘭学を教えました。
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復元された出島。シーボルトはここの一角に植物園を作って植物の研究をしました。
シーボルトは植物だけでなく日本に生育する動物にも関心を持ち、そうしたものを集め始めました。そのうちのあるものは標本や押し花にすることができましたが、できない動植物については、当時長崎で活躍していた画家の川原 慶賀(かわはら けいが)の協力を得て、絵として残すことにしました。
シーボルトは、こうして集めた標本や絵画の多くをオランダに帰国の際に持ち帰り、日本を理解するための研究資料として関係者に手渡したと言われています。シーボルト自身は「日本植物誌」を刊行しましたが、日本特有の動物については、ライデン王立自然史博物館の動物学者テミンクなどにより「日本動物誌」が刊行されその中で紹介されました。
Naturalis Biodiversity Center – RMNH.ART.256 – Dasyatis zugei (Müller & Henle, 1841) – Kawahara Keiga – Siebold Collection
川原慶賀によるエイの一種。シーボルトコレクション
Naturalis Biodiversity Center – RMNH.ART.5 – Carcinoplax longimana (De Haan, 1833) – Kawahara Keiga
川原慶賀によるエンコウガニの一種。シーボルトコレクション。
シーボルトが開いた鳴滝塾の跡地は1922年に「シーボルト宅跡」と名付けられ国の史跡に指定されました。ここにはシーボルトの胸像が建てられています。また季節になると庭に植えられた数多くのあじさいが満開になり、毎年開かれる「ながさき紫陽花まつり」の会場のひとつにもなっています。ここにあじさいがたくさん植えられているのはシーボルトはあじさいが好きだったからです。シーボルトはあじさいに「オタクサ」という花名をつけてヨーロッパに紹介しました。この呼び名は妻のお滝さんにちなんでつけられたものだと言われています。
シーボルト宅跡のすぐ隣には、赤レンガの3階の洋館「シーボルト記念館」が建っています。これはシーボルトの功績を讃え1989年に開設されたもの。博物館の建物はオランダのライデン市にあるシーボルトの旧宅に似せて作られました。ここには、シーボルトに関する資料が約1500点所蔵され、そのうちの200点余りが展示されています。
また、近くの商店街は「シーボルト通り」と呼ばれています。もしかすると、シーボルトがお滝さんとともに歩いたのかもしれません。当時のシーボルトに思いを馳せながら歩いてみてください。
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鳴滝塾の跡地に整備された「シーボルト宅跡」。季節になるとシーボルトの胸像が美しいあじさいに囲まれます。
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オランダのライデン市にあるシーボルトの旧宅に似せて作られたシーボルト記念館
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シーボルト記念館に繋がるシーボルト通り
長崎市にあるシーボルトの記念博物館と並んで、もう一つシーボルトについて知ることができる場所があります。それが、オランダのライデン市にある「日本博物館シーボルトハウス」です。シーボルトの旧宅を改造して2005年に博物館として開館しました。ここに行くのはちょっと大変かもしれませんが、シーボルトがオランダに持ち帰った数多くの日本のものや資料が展示されているので、機会があったら行ってみるといいですね。これまでこの博物館には皇室を初め政界の要人も訪ねています。
江戸時代後期に来日し蘭学を伝えた医者であり学者であったシーボルト。途中でシーボルト事件で国外追放されるなど不名誉な出来事も起こりましたが、30年後に再び日本を訪れ西洋の文化・学問を伝えました。また、日本の動植物を研究し、それを標本や学術的な資料として残しました。ぜひ長崎市にあるシーボルトの博物館を訪ねて、シーボルトの生きた跡を辿ってみてください。
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日本博物館シーボルトハウス(オランダ、ライデン)
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シーボルトハウス内の展示風景
写真提供:長崎県観光連盟
文:Setsuko Truong
メルボルン在住のフリーランスライター。旅とアートが趣味で日本国内・海外あちこち旅してきました。長崎は好きな町の一つ!そんな長崎の魅力をお伝えしたいと思います。
掲載日:
2020/02/14
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〒850-0011 長崎県長崎市鳴滝2-7-40