1945年8月9日、長崎市に原子爆弾が投下されました。この投下によって約74,000人が死亡し、爆心地から4キロメートル以内ではすべての家屋が全焼、全壊、半壊などの被害を受けました。これは長崎市内の総戸数の36パーセントに当たります。「平和公園」は、このような悲しい出来事が二度と繰り返されないようにという思いを込めて作られた祈念公園です。この公園のすぐそばには「爆心地公園」もあり、この2つの公園には様々なものが設置されています。いったいどんなものが置かれているのか見学し、平和への思いを強めましょう!
平和公園は長崎市松山町にあります。公園の入口は何カ所かありますが、新浦上街道と浦上天主堂通りの交差点近くにある入口がもっともよく使われています。以前はこの入り口から長い階段を登って公園の中に入ったのですが、2012年、この階段の横にエスカレーターが完成し公園へのアクセスが楽になりました。ただし車いすの場合はこれまで通り、地下駐車場からエレベーターを使います。
階段やエスカレーターで進んでいくと見えてくるのが「平和の泉」です。これは原爆によって体全体が焼けただれ、喉が渇き、水を求めて亡くなっていった、多くの方たちの霊を慰めるために作られたものです。平和の泉の近くには、ある少女が書いた「のどが乾いてたまりませんでした 水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました・・・」という手記が刻まれています。
平和公園は大変広いのでかなり歩きますが、その広い公園の奥の方に青銅色の「平和祈念像」が見えます。
平和公園の入口には階段の横にエスカレーターが作られアクセスが簡単になりました。
原爆の犠牲者は水を求めて亡くなっていきました。「平和の泉」はその人たちの冥福を祈って作られました。
広い公園の奥の方に青銅色の平和祈念像が見えます。
平和公園のシンボルである「平和祈念像」は、高さ9.7メートル、重さ30トン。青銅で作られています。製作者は長崎県出身の彫刻家「北村西望」氏。像の天を指す右手は「原爆の脅威」を意味し、水平に伸ばした左手は「平和」を意味しています。この祈念像は、よく見ると瞼が軽く閉じられていますが、これには「原爆犠牲者の冥福を祈る」という想いが込められています。
平和公園にはその他、「世界平和シンボルゾーン」のエリアにいろいろな国から贈呈された像やオブジェが置かれています。例えば、母親が子どもを抱いた姿で立っている像は「平和」と呼ばれ、1985年にソビエト連邦(当時)から贈られたものです。また、「乙女の像」は、同じく1985年に中国から贈られたもので、鳩を左腕に乗せた一人の幸せそうな女性の姿を表現しています。
平和公園のシンボル「平和祈念像」。天を指す右手は「原爆の脅威」を意味し、水平に伸ばした左手は「平和」を意味しています。
ソビエト連邦から贈られた「平和」像
中国から贈られた「乙女の像」
平和を願う様々な像やオブジェとは対照的に、平和公園では原爆投下当時の遺構を見ることもできます。それは、被爆当時、受刑者を収監していた長崎刑務所浦上刑務支所の跡です。ここには受刑者や被告人が81人、刑務所の職員が18人、官舎住居者が35人いましたが、刑務所は爆心地から100メートルほどしか離れていなかったため全員死亡し、建物も大変な被害を受けました。平和公園には刑務所の建物の基礎と周囲の塀の一部が残っています。
平和公園でもう一つ注目したいのが「平和の鐘」です。この鐘は、被爆地にたくさんあった軍需工場で働いていた中学生や女学生が原爆によって亡くなったため、その冥福を祈るために、33回忌にあたる1977年に建てられたものです。毎年8月9日の平和祈念式典ではこの鐘を鳴らしながら原爆犠牲者の冥福を祈ります。
長崎刑務所浦上刑務支所の基礎の遺構
刑務所の周りにあった塀の跡
「平和の鐘」は軍需工場で働いていた中学生や女学生の冥福を祈って建てられました。
平和公園と並んでもう一つ見学したいのが「爆心地公園」です。歩いて1分。平和公園のすぐ隣にあります。名前の通り、原爆の恐ろしさを忘れないように、原爆がまさに投下されたその地点を公園として残しているのです。園内のどこからでも見える位置に建っているのは「原子爆弾落下中心地碑」。原爆はこの石碑の上空500メートルの所で炸裂し、一瞬のうちに多くに人の命を奪いました。石碑は、そうした人々の冥福を祈り原爆の恐ろしさを忘れないようにという思いを込めて建てられたのです。
また、公園から川沿いに降りたところには「被爆当時の地層」が保存されています。この地層の中には爆風で粉々になった瓦、レンガ、ガラス、茶碗、針金などが入り混じっているのが見えます。それを見ると原爆がどんなに恐ろしいものであったのかが良く分かりますね。
原子爆弾落下中心地碑。この上空で原爆が炸裂しました。
「被爆当時の地層」を展示しているエリア
地層の中に爆風で粉々になった瓦、レンガ、ガラス、茶碗、針金などが入り混じっているのが見えます。
爆心地公園にはそのほかいろいろなものが置かれています。その一つが「浦上天主堂遺壁」です。浦上天主堂は爆心地公園から500メートルほど離れた所にありますが、激しい爆風を受け、建物はほとんど崩壊してしまいました。ただ、一部の壁だけが残っていたためこの公園に移動し、その恐ろしさを現代に伝えているのです。
公園の中でも国道寄りに建てられているのが、「被爆50周年記念事業碑」です。これは母親が傷ついた子どもを抱いている像で、被爆50周年を記念して建てられたものです。傷を負った子どもは被爆当時の日本の姿を、そして母親はその日本を支えてくれる世界の国々を象徴しています。50周年を迎え、核兵器の廃絶と平和への思いをさらに強めようという平和公園整備事業の一環として作られました。
爆心地公園には、また、折り鶴を飾るエリアもあります。特に8月9日の「原爆の日」にはたくさんの人が折り鶴を持って参加し、その折り鶴をこのエリアに飾り平和を祈願します。
今のような平和な時代に生きていると、平和というものを当たり前のように思ってしまいがちですね。でも平和公園や爆心地公園に置かれた像や石碑などその背後にある意味をよく理解すると、平和でない時代があったこと、そして原爆の恐ろしさや戦争の惨たらしさが伝わってきます。観光都市として多くの観光地がある長崎市ですが、戦争の悲しい歴史も深く刻まれています。平和な世界への思いを確認するために、改めて平和公園を訪れてみてはいかがでしょうか?
文:Setsuko Truong
メルボルン在住のフリーランスライター。旅とアートが趣味で日本国内・海外あちこち旅してきました。長崎は好きな町の一つ!そんな長崎の魅力をお伝えしたいと思います。
甚大な被害を受けた浦上天主堂の遺壁。500メートルほど離れた天主堂の敷地からこの公園に移動しました。
被爆50周年記念事業碑。傷ついた子どもは被爆当時の日本を、そして母親はその日本を支えてくれる世界の国々を象徴しています。
平和を祈り原爆を繰り返さないことを願って飾られる折り鶴。
掲載日:
2019/07/12
※掲載している情報は記事公開時点のものです。変更される場合がありますので、お出かけの際には事前に各施設へお問い合わせください。
【平和公園】〒852-8118 長崎県長崎市松山町9
【爆心地公園】〒852-8118 長崎県長崎市松山町5