長崎市の中心部を流れる中島川にある看板が立てられています。
「原子爆弾投下照準点」
看板があるのは袋橋の脇の小さな公園。下流の常盤橋が見える場所に立っています。
1945年8月9日、アメリカ軍が長崎に投下した原子爆弾(原爆)は、ここから北西に3.4キロ離れた松山町の上空で炸裂し、大きな被害を出しました。実は長崎への原爆は、元々は北九州・小倉が「第1目標」で、9日の朝、小倉が雲で覆われて視界が悪かったことから、長崎に投下目標が変更された、という歴史があります。
しかも、長崎が原爆投下「第2目標」ではありましたが、その投下目標地点は浦上地区ではなく、ここ中島川にかかる常盤橋から賑橋の辺りでした。これは、長崎港周辺の造船所や軍需工場、それに商業の中心地だった浜町に近いことから、アメリカ側が原爆の威力を調査するのに最適であったため、と考えられています。
しかし、この投下目標の長崎市中心部も雲に覆われていて、アメリカ軍の爆撃機はその目標も変更して浦上地区に原爆を投下しました。
原爆投下からことし(2022年)で77年。この橋を歩く人たちは、まさかここが原爆投下目標だった、とは思いもよらないでしょう。原爆の被害は原爆資料館や平和公園の周りだけ、と思いがちですが、長崎市内のあちらこちらにまだまだ、その痕跡は残っています。今回は長崎市の中心部、中通りから寺町を歩いて、探してみましょう。
中島川にかかる「常盤橋」。ここが原爆投下の目標地点でした
「原子爆弾投下照準点」を知らせる看板。実際の爆心地とは3.4キロ離れている
中通りにある老舗の和菓子屋。ここにも原爆の被害が残る
中島川から、中通りへ。江戸時代中期から続くという歴史ある商店街です。その中でもひときわ、目立つ店構えの和菓子屋さん。岩永梅壽軒(いわながばいじゅけん)は創業が天保元年(1830年)、190年前からあるお店です。古い看板が目印のこちらのお店は、明治35年(1902年)に建てられたとのことで、原爆の被害を受けました。
前に、お店の人に「北西の方向から爆風が来て、店が少し傾いているのですよ」と聞いたことがあります。店の入り口の柱には、釘を打って5円玉がつり下げられています。
これをよーく見てみると・・・5円玉をつり下げている糸はまっすぐですが・・・柱が少し右に傾いているようです。およそ3キロも離れた場所の大きな建物を傾けた、原爆の威力を改めて感じます。
爆心地からおよそ3キロ。古い商店街にも原爆被害の跡を見つけました
お店の入り口の「柱」をよく見てみると・・・
柱が傾いているのがわかります。(お店全体は補強されています)
中通りから、1本、東側(山側)の通りには「寺町」の名前の通り、たくさんのお寺が建ち並んでいます。この辺りでも、先ほどの和菓子屋さんと同様、原爆でお寺の建物が傾いたり、瓦が壊れたり、といった被害があったと被爆者や地域のお年寄りの方々から聞いたことがありました。
深崇寺(じんそうじ)も、原爆で本堂が傾いていて、その被害を今も見ることができます。およそ400年続く浄土真宗のお寺です。
通りから立派な山門をくぐって石段を上がると、青い芝生の先に古い本堂が見えました。
「原爆の被害を受けたと聞いたのですが・・・」とお寺の方に声をかけると、ご厚意で特別に本堂に案内してくださいました。
一目見て、「あ!」と分かる傾きです。自分の平衡感覚がぐらり、とするような、梁(はり)と柱と、床が直角に交わっていません。こんなにも大きく傾けるものか、とここでも爆風の威力を強く感じました。
お寺の方によると、以前は別の建物も原爆被害を受けたまま残していたのですが、建て替えざるを得なくなったそうです。だんだん、老朽化によって原爆の被害建物が少なくなってきています。
それでも、古い町並み、建物、あちらこちらに原爆の被害の痕跡がまだまだ残っていそうです。
寺町通りにある深崇寺
寺の本堂。奥に向かって傾いているというのですが・・・
中に入って、驚き!柱が大きく傾いています
文:冒険する長崎事務局
掲載日:
2022/11/03
※掲載している情報は記事公開時点のものです。変更される場合がありますので、お出かけの際には事前に各施設へお問い合わせください。
【常盤橋】長崎市万屋町2
【岩永梅壽軒】長崎市諏訪町7-1
【深崇寺】長崎市寺町6-1