雲仙から諏訪の池を通って、南島原へと抜けようと車で走っていると・・・「縄文時代」「ドルメン」との看板!?ドルメンって、何だろう?と寄り道をしてみました。
畑の間を進んでいくと、広い原っぱに出ました。芝生が短く刈られていて、子どもが走り回るにはとってもよさそうな原っぱ。東屋もトイレもあって、ドルメンって原っぱのこと?と思いながら、辺りを見回してみると、木々の間から、ちょっと不思議な形状の建物が見えます。大きめのテントのような形状のものが数基。これがドルメン??
「ドルメン」の看板の先には広い原っぱ。ここは・・・!?
子どもが走り回るにはちょうどいい原っぱなのだけれど、縄文時代とどんな関係があるのかな?
木々の先に、何やら・・・!ちょっと不思議な形状の建物が・・・
不思議な形状の建物から、もう少し原っぱの斜面を下りてゆくと、柵に囲まれていくつもの石が見えました(40基以上あるそうです)。実はこれが「ドルメン」。日本語では「支石墓」つまり、石で支えられたお墓を、フランスの地方の言葉・ブレトン語で「ドル(卓)メン(石)」というそうです。
そして、なんと!こちらの「原山ドルメン」は、紀元前4世紀ごろに作られたもので、日本で最古・最大の支石墓群とのことで考古学の分野ではとても貴重な遺跡です。南島原市文化財課に尋ねてみると、当時は狩猟生活が主で、狩りのできる場所を転々としてたと考えられ、平場に簡素な住むところを作って生活していたのではないか、とのこと。2000年以上も昔に、この同じ場所に人々が住んでいた、と思うとちょっと不思議な感じがしました。
さて。この原山ドルメンですが、発掘調査などから縄文時代の終わりの頃の共同墓地ということがわかっています。実際、今の私たちが知る墓の形とは全く違い、表面には30センチ~1.5メートル程のやや大きめの石が見えるだけです。この石の下に棺や土器などの副葬品を埋めていたようで、その周りに石(支石)を置き、大きな石で覆う墓の形となっています。朝鮮半島南部にもたくさんの同じものがあることから、支石墓は朝鮮半島から伝わったものとされています。
また、石包丁なども出てきたことから稲作技術の伝来とも関係すると見られていて、縄文時代から弥生時代へと移り変わりの時代に、長崎が朝鮮半島と密接につながっていたことを示す遺跡でもあるということでした。
こちらが「ドルメン」(支石墓)。縄文時代のお墓の跡です。
1972年に国の史跡に指定。「原山支石墓群(原山ドルメン)」
土中に「支石」があり、この上に別の石が載せられている。
はるか昔、縄文時代と南島原・・・そんなつながりがあったのか、と新たな発見!
長崎は出島での南蛮貿易やキリスト教伝来など江戸時代の華やかな歴史が注目されがちですが、壱岐・原の辻遺跡や対馬のそば伝来など縄文・弥生時代から大陸とのつながりを色濃く感じさせる歴史も興味深いですね。
そして、最初に見つけた不思議な建物は、縄文時代の生活に思いをめぐらせながらの宿泊体験施設だったそうです(現在は泊まることができません)。電気やガスがない時代の生活。夜は真っ暗でしょうねー満天の星空が美しいかな。原山ドルメンからの帰り道は、縄文時代を想像した話で盛り上がりました。
こちらは宿泊施設だったそうです。縄文時代を感じさせる形なのでした。
今も周りには家々があり、人々の生活があるのだなぁー
ドライブの途中に休憩がてら立ち寄ってみるのにぴったり!
文・写真:冒険する長崎プロジェクト事務局
掲載日:
2022/03/17
※掲載している情報は記事公開時点のものです。変更される場合がありますので、お出かけの際には事前に各施設へお問い合わせください。
南島原市北有馬町原山